東京都青梅市の印鑑・はんこ専門店

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2022.12.10

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【技能士の事件ノート】国宝・金印をめぐる謎

こんにちは。印章彫刻技能士Hです。
今回は、少し趣を変えて歴史ロマンの旅をしてみようと思います。現在、東京国立博物館では特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」が開催されています(2022年10月18日(火) ~ 2022年12月18日(日))。それに因んで最も有名な国宝の一つである「金印」についてお話しましょう。
※「金印」は東京国立博物館には展示されていません。本物は「福岡市博物館」にあります。

今回のお話は「国宝・金印をめぐる謎」です。
(これはあくまでも架空の印章彫刻技能士Hの考察です。)

日本人であれば「国宝・金印」はご存じだろうと思います。日本の教科書に載っていたはずです。「漢 委奴 国王」と彫られた、純金でできた(23Kとの分析あり)、日本に現存する最も古いハンコです。

「国宝・金印」

中国の歴史書「後漢書」には、西暦57年に「後漢に貢ぎ物を持ってあいさつに来た倭奴国に対して皇帝が印を与えた」という記述があります。それは邪馬台国の卑弥呼よりもさらに130年ほど前のことです。(中国の記録に、日本「倭国」のことが記載されて残っているものは、この後漢書の記述が最古といわれています。)

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」新潟県立歴史博物館 平成20年度秋季企画展「ハンコ今昔」展示図録より

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」

金印がこの記述にある印綬であるという見解が定着し、金印は昭和29年に文化財保護法に基づき国宝に指定されました。

大きさは、印面一辺の長さが約2.3cm、印面からの高さが約2.2cmn、重さが約108gの純金製です。上部には蛇の形をした鈕(ちゅう)=「つまみ」があります。

実は、この金印は偽物ではないかという議論が発見当初から絶えず、その論争は現在も続いています。

事実、昭和25年に文化財保護法が制定されて、それまでの国宝を見直した際には、「偽品の疑いがある」として国宝の指定を外されました(昭和29年に国宝に再指定されます)。

【謎その1 発見者はだれ?】

発見されたのは、江戸時代の中頃(1784年)。現在の福岡市の志賀島で水田の溝を修理していた農民・甚兵衛(じんべえ)が土の中から見つけたとされています。甚兵衛の口上書(=報告書)のほか、福岡黒田藩の高名な儒学者・亀井南冥(かめい なんめい)が黒田藩に提出した二通の「鑑定書」(現在、所在不明)とそれを補足する論文『金印弁』があります。

「金印弁」NHKより

しかし、発見の経緯を説明した口上書は複製しかなく、本物は行方不明です。そして発見者の甚兵衛が当時の志賀島の過去帳や人別帳ほかの記録のどこにも見当たらず、実在していたのか不明です。そうなると口上書の信ぴょう性も疑わしいですね。

また、同時代の別の文書には、発見者は秀治・喜平という二人の農民で、甚兵衛はそのことを郡奉行に提出した人物と書かれています。これは口上書と異なります。

亀井南冥が記した『金印弁』には、発見者である甚兵衛の名前は記載されておらず、農民とだけ書かれているのも甚兵衛の実在に疑いが深まります。

さらに甚兵衛が金印を持ち込んだ先の郡奉行・津田源次郎と、津田が相談した商人・米屋才蔵は、儒学者・亀井南冥と友人同士でした。このことから、亀井が「後漢書」を読んで金印を制作し、金印を発掘したことにして黒田藩に提出したのではないかと推測する偽物派の学者がいます。甚兵衛は架空の人物だったのでしょうか?

「儒学者・亀井南冥(かめい なんめい)」

金印の発見は、儒学者・亀井南冥が福岡藩に2つある藩校の1つの館主に就いた直後でした。金印発見後、亀井の知名度は高くなり、亀井の藩校の権威は高く評価されました。ところが、金印発見から3年後、亀井は理由不明で突然失脚します。近年、ある学者は「黒田藩によって偽作が発覚されたため」ではないかと推定しています。黒田藩としては金印偽作が判明しても、これを公表することは得策ではない。だから黙認を守ったに違いないと言います。とはいうものの、確定的な物証はありません。

なお、「金印弁」に捺されいる金印の印影は、二通の「鑑定書」の印影とは異なることが知られていて、「金印弁」が書かれた時点で既に金印のコピーが存在していました。金印のコピーは別の文書でも確認されているので、早い段階で複数のコピーが作られているのです。どれが本物なのでしょう?

【謎その2 発見場所が不自然?】

金印が発見された場所は、文献上は筑前国那珂郡志賀島村叶崎(かなのさき)、または叶ノ浜とされています(現在の福岡県福岡市東区志賀島)。過去に何度も発掘調査が行われ、海底の調査まで行われましたが、何も発見することはできませんでした。決定的な証拠を見つけることができず、場所を特定することができませんでした。現在はここではないかと推定される場所が金印公園として整備されています。

志賀島(Googleマップが開きます)
志賀島の金印公園(Googleストリートビューより)
金印公園より海を臨む(Googleストリートビューより)
?印が発見場所。×印は金印公園。(現代印章6月号より)
「金印弁」に書かれた発見場所(右側の丸)の地図(左が北)

場所を特定できなかった理由は、志賀島にはそれらしい遺構もなく、金印以外には出土品が一切見つかっていないためです。古代に人が暮らしていれば石器や貝殻や動物の骨、埋葬地や祭祀跡ならば人骨や鏡や首飾りなどの副葬品があってしかるべきです。それなのに金印以外の出土品が一つも見つからないなんて、不自然ですよね。この為、年代測定もできません。

志賀島を占領し、海上(恐らく日本軍)の様子を窺う元軍将兵。
蒙古襲来絵詞』後巻・絵20・第35紙
(ウィキペディアより)

さらに志賀島は、鎌倉時代の元寇(弘安の役)では主戦場となり、海上や陸上で激しい交戦が行われました。土地は踏み荒らされていたことでしょう。その後の長い年月の間には台風などが何度も襲ってきて、土地が掘り起こされたりしたことでしょう。
その様な場所で発見されたにもかかわらず、金印にはほとんど傷がありません。柔らかい純金なのにです。これも不思議です。本当にここで発見されたのでしょうか?

【謎その3 当時は彫る技術がなかった?】

金印の文字の断面形状は逆台形に彫られています。工芸文化研究所の理事長、鈴木勉氏はこれを「鉢彫り」(はちほり)と名付けました。実は壁が垂直でないこの断面形状のゆえに、昭和25年に国宝の指定を外されたのです。(当時、金印は「薬研彫り」(やげんぼり)と見なされ、これは新しい彫り方と考えられていました)

参考文献(3)より
参考文献(3)より

金印の文字の加工法は「さらい彫り」という技法です。これは、下書きの文字の輪郭を細く削り、その後内部に残った「島」をさらいとる技法です。これに対して一本の線を一回で彫る技法を「線彫り」といいます。この当時の中国ではほとんどの印章は「線彫り」または「鋳造方式」で作られています。

中国古代の金属製印章のなかで、断面が逆台形の「鉢彫り」で、かつ「さらい彫り」の技法で削られている印章は発見されていません。本物派は類似の印章が存在すると主張しますが、同一の工法であると科学的に検証されているわけではありません。

「金印」のような「鉢彫り」で「さらい彫り」ができる切れ味鋭い刃(たがね)で削った印章は古代中国には見いだせず、逆に江戸時代の金属製印章の特徴と一致しています。

金印と同じヘビの鈕をもつ「滇(てん)王之印」

また、鈕(ちゅう)に関しては、駱駝(ラクダ)か亀を基本とする漢代の制度からみて、金印の蛇鈕は例外中の例外です。本物派の学者は、類似の例として雲南省石寨山古墓で出土した「滇(てん)王之印」が蛇鈕であると主張します。

しかし、滇王之印は、印台と鈕を別々に鋳造した後で溶接していて、全く製法が異なり、金印が漢代のものであるという証拠としては説得力に欠けます。またこの印は線の壁が垂直に近い「箱彫り」であり、線の太さも「金印」とはずいぶん異なるため、金印と同列に扱うのは無理があります。さらに、この「滇王之印」自体も漢王朝から下賜されたとは確定されていないので、「滇王之印」と同類であるから「金印」が漢の洪武帝から下賜された印綬であるという根拠にはなりません。

なお、「滇王之印」の鈕は明らかにとぐろを巻いた蛇の形状であるのに対して、「金印」の鈕は何を表しているのか分からない程に稚拙であることを指摘する人もいます。これに関しては、「金印」は当初駱駝の鈕であったものを、後から蛇に替えたのではないかという説もあります。
「金印」は漢王朝の公式な印なのでしょうか?

【謎その4 印文の読み方がわからない】

「漢委奴国王」の印影(ウィキペディアより)

この金印は篆書体(てんしょたい)という書体で彫られています。教科書などでは「かんのわのなのこくおう」と読まれています。これは明治31年(1898年)の三宅米吉の論文によります。しかし「漢委奴国王」のうち「委」と「奴」の2文字をどう読むかについて、現在も学術的には確定されていません。

「委奴」の2文字について「わのな」「いと」「いぬ」「いな」「わぬ」など多数の読み方が乱立しています。「金印弁」を書いた亀井南冥は「やまと」と読んでいました。その中で「わのな」と読むのが、今日の代表的な解釈ですが、文化庁編『国宝事典』第四版(2019年)では「その訓みについてはなお定説をみない」としています。そもそも「奴」にはナという読みはありません。

文字自体に関しても疑問があります。「後漢書」には「倭」と書かれています。「倭」が正しい漢字なのに、ニンベンのない「委」としたのはなぜなのか?

本物派の学者は、漢字を省略することはあり、不思議ではないと言います。しかし、「ワ」を省略した結果は、意味も読みも異なる別の漢字「イ」になってしまうので、これも説得力に欠けます。

本物派の別の学者は、偽造するなら「委」にせず「後漢書」の記述に従って「倭」にするはずであると述べていますが、逆に本物ならば字を間違えるはずがありません。やはり「後漢書」と異なるのは不自然です。

さらに、「漢+民族(倭)+国名(奴)+官号(国王)」という組み合わせに関しても疑問が出されています。中国の古代の印章のなかに「民族名+国名」の構造をもつ印章が一つも発見されていません。このため「わのな」と読むことは無理があります。この点は重要でしょう。

はたして本物か?

その他、金印は文字が端に向って太くなる傾向があり、この様な書体は漢時代にはなかった、など様々の指摘があります。

このような論争となる原因には、「後漢書」には贈られた印綬自身に関する記載がないことがあげられます。ただ印を送ったとだけ書かれていて、その材質、色や形、大きさ、刻まれた文字も分かりません。何を送ったのかが分からないのに、「金印」がその印だと言われてもそれを決定づける証拠が見つけにくいのです。

また、金は時間が経っても変化しないために、西暦57年のものなのか1784年のものなのかを判断できないのです。何か他の方法で時代を判断しなければならないことも、問題を難しくしている一因でしょう。

学者はもちろんのこと、一般の研究家も巻き込んで、本物派も偽物派もそれぞれが自説の正しさを主張し、今もなお論争の最中です。その情熱は「邪馬台国」が九州なのか近畿なのかの論争にも似たものがあります。

以上の文章は、様々な資料を基に考察した結果をまとめたものであり、誤った解釈があるかもしれません。謎というタイトルのため、偽物派の意見を参考にすることが多くなってしまいましたが、個人的には本物であってほしいと願います。解明されていない謎が多くて、まだ断定はできません。歴史ロマンをかき立てる話題の一つです。

以上、印章彫刻技能士Hでした。

※これはあくまでも資料に基づく架空の印章彫刻技能士Hの考察です。

【参考文献】
・(1) 月刊「現代印章6月号・7月号」ゲンダイ出版(2022年)
・(2) 新潟県立歴史博物館『平成20年度秋季企画展「ハンコ今昔」展示図録』北越印刷(2008年)
・(3) 鈴木勉『「漢委奴国王」金印・誕生時空論―金石文学入門〈1〉金属印章篇―』雄山閣(2010年)
・(4) 三浦佑之『金印偽造事件 「漢委奴國王」のまぼろし』幻冬舎新書(2006年)
・(5) 福岡市博物館ホームページ(http://museum.city.fukuoka.jp/gold/
・(6) 漢委奴国王印-ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/漢委奴国王印
・(7) 元寇-ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/元寇
・(8) NHK国宝へようこそ「漢委奴国王 金印」 2021/11/28(https://www.youtube.com/watch?v=AsEA_y_KwC8
・(9) NHKサイカルジャーナル「金印は本物? 真偽めぐる論争過熱」2018.1.31(https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2018/01/story/special_180131/

当店(竹田印店)では、黄綬褒章を受章された現代の名工、間宮寿石先生の指導による篆刻体験教室を開催しております。自分で「漢委奴国王」の印を彫っても面白いですね。

また、間宮先生に落款印の製作を依頼することもできます。

落款印・篆刻体験教室などに関するお問い合せは、 ホームページの「お問い合わせ」、または電話(0428-22-4461)でお気軽にどうぞ。